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 Essay 8・・・・・・「季節のかたみ」を読んで


静かな語り口が心にしみる

幸田文の平明な文章で綴られた、暮らしについてのエッセイを読んでいると、設計者である僕は、こんな気配、味わい、余韻を生み残す建築はあるだろうかと想像する。

建築を「凍れる音楽」と例えるのは、なんだか少々大げさすぎる気がするが、音楽を聴いていても文章を読んでいても、その気配をどんな空間にならば置き換えられるだろうかと、考えてしまうのは設計を生業とする者の身に沁みてしまった習性のようだ。

幸田文の文章には、新規な知識が盛り込まれていることもなく、声高な主張があるでもなく、驚くようなレトリックが散りばめられている訳でもない。しかし、日々の生活の中で見つけだされる何気ない喜び、心地よさ、ふとした季節の移ろいを見つける楽しさが、読む者に深く静かに染み込むように伝わる。平易でありながらよく吟味された言葉の丁寧な積み重ねが、見慣れた日常から新鮮な喜びを掘り起こす。ほんの些細な息づかいから生きていることの手応えを感じ取る。見過ごしていた当たり前の日常が、ほんの少し心持ちを変えてみることで、豊かに感じられることを教えてくれる。

幸田文の文章を読んでいると、頭の中で、吉村順三の住宅建築の空間を連想してしまう。

 吉村順三の建築は、声高なイデオロギーに囚われることもなく、奇抜な形態を纏うこともなく、先端的なテクノロジーに表現を頼ることもなく、目新しい素材を表現のために使うこともない。それでいて、ただ居るだけで心地よく、ちょっとした日常生活が楽しくなるような工夫と心配りがあり、納まるべき物が、納まるべき形態に納まる落ち着きがある。見せかけのためだけのデザインではなく、時間や空気や生活そのものを楽しむためのデザイン。削り落とされた要素が、在り得べき静謐な秩序によって、組み立てられた見事なプロポーションと存在感に満ちている。

幸田文の文章を読み、吉村順三の建築を思いながら、表現と言う物を考えると、トレンドだなどと言って、人の眼を殊更に引くための在り方は、慎むべきだと、あるいは必要ないのだと素直に思えてくる。そうした部分から表現は腐蝕して行くのだろう。

過剰な情報と表現に溢れた現代、「季節のかたみ」の物静かな語り口が、心にしみる。


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