Home

Essay


 Essay 6・・・・・・日常生活から火を絶やしてはならない


日常生活から火を絶やしてはならない

 スマート透明体温なし建築が流行っている現代、ツルルツピカピカ、スイッチピッのIHヒーターは、確かにお似合いで、掃除も楽で、安全そうに見える。電磁調理器は「火を使わないから安心」「クリーン」がうたい文句である。しかし、素直には信じられない。

日々、小さな危険と向き合う 

人類は、日常的に火を管理する術を身につけることにより、他の哺乳類と進化の道を分け、文明を築いた。闇夜に獣から身を守るために火を熾し、絶えないように管理し、そして、火の周りに集い、煮炊きをし、一緒に食事をすることから人類らしい文化を生み出した。

 直火がほんの少し危険だからと言って、生活の中から火を管理する能力を失っていって良いのだろうか。日常で使う火を管理することすら出来なくなって良いのだろうか。三島由紀夫が何かの文章で「火を焚いて料理しないと食事をした気がしない」と書いている。人間が失ってはいけない大事な何かを言い当てているような気がする。

 「火を使わないから安心」は、本当にそうだろうか。突然発火の事故など技術的な問題は多々指摘されている。しかしそれと同じように問題なのは、人が生活してゆく中で、当たり前に持っているべき小さな危険を日々管理してゆく能力を、いとも簡単に、知らない内に失って行くことである。

 火のことに限らず、日常は小さな危険の連続である。小さな危険を自分の能力で気を付けながら暮らすのと、小さな危険すらないものと錯覚して暮らすのでは、どちらが本当に危険なのかは明らかなはずだ。

 高齢者介護の問題で、老人は寝たきりになるのではなく、寝たきり老人にさせられるのだ、と言う話がある。つまり、まだまだ歩いたり、日常生活をする能力を持っているのに、歩き回ったり、日常生活を自分でしない方が、事故にも遭わず安全だからと、ほんの少しの介助の手間を惜しむために、寝たきりにさせられてしまうと言う話である。日常の中で、普通に使っていれば、衰えない能力を、ちょっと危なそうだからと、使わなくなることで、加速度的にその能力は失われて行く。そして二度と使えなくなる。火を管理する能力も同じではないだろうか。

「クリーン」の出所を考えよう

「クリーン」と言うのも疑問である。電気エネルギーは、自然界から直接取り出すことができず(落雷などから直接取り出せれば別だが)、人為的に他のエネルギーから作り出さなくてはならない。

 エネルギーはその様態を変化させるたびにロスを起こして行く。石油、天然ガス、石炭などの化石燃料を、火力発電所で燃焼させて(熱エネルギーに変換)、タービンを回し(動的エネルギーに変換)、電気(電気エネルギーに変換)を取り出している。そして送電ロスを加えて、各家庭に送り、IHヒーターで電気エネルギーを磁気(磁気エネルギーに変換)にして、鍋底に渦電流(電気エネルギーに変換)を発生させ、鍋の電気抵抗により、熱エネルギーに変換している。単純に化石燃料から熱エネルギーを取り出すよりも、何倍もの変換ロス、送電ロスを加えて、電気エネルギーから熱エネルギーを取り出していることになる。これがはたして、地球環境に配慮したエコロジカルな、エネルギーの取り出し方、使い方なのだろうか。

 電気にしかできないことは、電気でやれば良い。しかし、簡単に火を焚いて熱を取り出すようなことを、さまざまなロスを加えて、電気を使う必要がどこにあるのだろうか。

 また、現在発電のかなりの部分を原子力発電に頼っている。核エネルギーでつくり出した電気は、はたして本当にクリーンなエネルギーと言えるのだろうか。末端のIHヒーターでCO2を排出しないから「クリーン」だと言うのであれば、あまりに浅はかな議論である。

人類の大切な能力だから

 さまざまなエネルギーを、適材適所に効率よく使い分けて暮らすのが、地球環境になるべく負荷を掛けない暮らし方ではないだろうか。簡単な目先の便利さ(ツルルツピカピカで掃除がラクだとか)、安易な安全性(ただ単純に直火を使わないとか)に流されてオール電化にする必要はない。物は使えば古び汚れるのであり、安全は自分の目と手で確かめるべきだ。

 火を付けたら、火を付けたことを忘れないこと、火を消し忘れないこと。当たり前のことは、当たり前に出来た方が良い。日常生活の中で火を管理して暮らすことは、人類が長い年月を掛けて、培った大切な能力の一つなのだから。


Home

Essay