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 Essay 4・・・・・・「ハウルの動く城」を観て


“スマート透明体温なし建築”の転換期

 映画館の暗闇でシートに身をあずけ、モコモコ動く「ハウルの動く城」を見て、しばらくこうした感触の建築を見ていないな、と思った。

 スマートで透明感があり体温のない建築が、流行っている。具体的には列挙しないが時代の趨勢といって間違いないだろう。いつの頃からか建築の表現は、力の籠もった、生命力のある、濃密な、と言った表現を避けるようになった。表現行為は、行き詰まると、前衛と土着、合理と非合理、知的表現と身体的表現といった二局分化を実験的に繰り返しながら、次の時代の主流となるスタイルを探すはずなのに、今回は、いつの間にかあっさりと、スマート透明体温無し建築になった気がする。現実の建築では表現されなくなってしまった、土着、非合理、身体的といった感触が映画の中の「ハウルの動く城」の造形には詰まっていた。

もともと住宅は、ハレでありケであり、冠婚葬祭の非日常の式場であり、食う寝る遊ぶの日常の場であり、混沌であった。住宅は、集まることで集合の内部に都市機能(広場・市場)を生み出し、集まりの周縁-外部・自然への接点となる。そして住宅は、都市内部、周縁-外部、両方からの帰るべき巣である。

都市の周縁を彷徨う、「ハウルの動く城」は、現代都市のほとんどを埋め尽くすn-LDK住宅が忘れた振りをしている、すべてを含んだ帰るべき巣である、根源的な住宅の姿のに見える。

この映画を観ながら既視感に捉えられてしかたがなかった。「ハウルの動く城」が何かの住宅に似ているように感じてしまうのだ。ある時気が付いた、「ハウルの動く城」は河合健二の自邸に似ている。都市との距離感(都市の周縁を彷徨う姿=都市の郊外に埋まる姿)、エネルギー源の内包(火の精カルシファー=自家用小型エンジン)、そしてその存在感(バナキュラーな造形=合理主義の徹底による異物感)。そして両者に共通する「すべてを含んだ帰るべき巣」のような感覚。魔法で出来ている「ハウルの動く城」の存在感と、合理主義の極北のような河合健二自邸の存在感が似ているのも不思議だが、常識とか一般といったものからの距離感、異物感を考えると納得できる。共通するのは力の籠もった、生命力のある、濃密な、存在感。

人間は飽きる生物である。いつも満員の観客とともにジブリ映画を観ていると、「スマート透明体温無し建築」も、そろそろ考え時かなとの思いが、チラリと頭の中を過ぎる。


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