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 Essay 2・・・・・・[聖の青春」を読んで


一人の棋士の壮絶な痕跡

「人生は将棋に似ている。」と大棋士升田幸三は言っている。設計者である僕にとっては「一作の設計は、一局の将棋に似ている。」である。序盤の構想と駒組み(=初期のイメージと企画・計画)があり、中盤の展開と攻防(=基本設計、実施設計)、終盤の寄せと詰み(=現場でのディテールの詰め、竣工)がある。そして何よりも将棋も建築の設計も一人ではできない、必ず対局者(建主や施工者)との一手づつの真剣な対話、駆け引き(設計プロセス、打ち合わせ)を通して、初めて一局の将棋が成立する(一つの建物が完成する)。一局の中に流れ(打ち合わせの積み重ね)があり、最善手(理想型)を探す楽しみがあり、現実的な局面の検討(コストや行程の検討)があり、そして勝利(完成の喜び)への執念がある。
 本書は難病と闘いながら、一局の将棋の意味、生きること、死ぬことの意味を問い続けた、プロ棋士村山聖九段の短くも真摯で濃密な人生の記録である。誰しもが、自分の人生に意味はあるのだろうかと思い悩み、もし意味があるのならば何らかの形で自分の生きた痕跡を何かに刻みたいと願わないだろうか。そんな思いに捕らわれていた十八歳の頃、僕は強く建築の設計者になりたいと望んだ。設計者になれば、良し悪し、世の中に認められる認められないは別にして、何らかの思いを建築として残せるのではないかと、漠然としかしながら強く深く思った。プロ棋士は、自分にしか指せない一手、自分にしか残せない棋譜を求めて、「吹けば飛ぶような」と歌われている将棋に人生を掛けている。設計者も自分が設計する事に意味はあるのかと(他の人が設計しても同じではないかと、あるいはその方がましなのではないかと)思い悩みながら、やはり自分らしい設計がしたい、それが建主にとっての最善手であって欲しいと願って設計している。
 健常者にとって日常は、有限性を持たない平坦な道である。子供の頃から難病を抱え、日々死を意識せざるを得ない村山聖九段にとって、日常は限られた無駄にできない一日一日のかけがえのない積み重ねである。そしてまた、どの一局もおろそかにできない、限られた人生の生きた痕跡である。村山聖九段の残した一局一局からは、己の生き様を掛けた魂の叫びが聞こえて来そうである。健常者である僕は日々の設計行為に、倦んではいないだろうか。出来ることならば残り限られた作品を、自分自身の生き様を刻みつけるように設計がしたい。本書を読んで強くそう思う。


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