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 Essay 10・・・・・・「邂逅の森」を読んで


血が滾る本能的な充足感

小学生の頃、「縄文式土器の時代から弥生式土器の時代に移った。」と言う写真入の教科書の記述を読んで、写真の順番が間違っているのではと思った記憶がある。手の込んだ思い入れの強い複雑な、作るのが困難そうな造形の器から、思い入れのなさそうな誰にでも作れそうな単なる容器としての器への変化が、進歩だとは感じられなかったからだ。人類が土器を作り始め、単純な造形から、やがてさまざまな技術を修得し、複雑な造形が作れるようになるのだろうと想像していたからだ。

 似たような違和感を、建築を学んでいた大学生の時にも、ふと感じたことがある。複雑な造形の様式建築から、フラットな表現の近代建築への変化ははたして進化なのだろうかと。そこには建築を造ること自体に象徴的な意味があった時代から、建築を機能的に使うことに意味がある時代への変化があったのだろう。縄文土器の時代、人々は主に狩猟と採取で食料を確保し、食料の備蓄自体がまれな行為であり、そのまれな出来事に関連する土器も、作ること自体に意味があり、喜びがあった。やがて稲作が始まり、不確実ではあっても年毎の収穫に予測が立てられるようになり、次の収穫までの備蓄が当たり前になった時代、土器も機能的に効率よく使えること、経済効率よく作れることに、その存在の意味は移った。

 「邂逅の森」は、雪深い東北の冬山に熊を追う現代のマタギの生活を描いた小説である。近代、現代において、厳しいマタギの仕事に経済的な意味合いはほとんどない。熊を撃って得る収入などは、他の安全な仕事でいくらでも補填できるからだ。

 しかしマタギの人々は、山深く熊を追う生活を止めない。そこには換金を目的とした労働と言う以上の喜びがあり、充実感があるからだ。雪深い冬山で自分の命を自然と対峙させ、熊を獲る。熊は獲物ではなく、山からの授かりものであり、山ノ神に感謝の念を捧げる。その生活には厳しくとも、自然や宇宙と一体となるような満たされた感覚があり、また、縄文の時代から連綿と続くであろう血の滾るような本能的な手ごたえがある。生の充実感がある。

 機能性、効率性が重要視され、さまざまなファンドが組まれたり、投機の対象のように扱われたりすることも多い現代の建築においても、経済性、換金性に変えがたい、建築を造ること自体の喜びや、手ごたえを忘れたくない。

 血の滾るような手ごたえと充実感がある設計がしたい。


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